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遊慈のEasy Life

『不如帰』天下統一への道-その三十八

 「天下統一の道」も、残すところ3つになりました…ここまで長かったよ、ママン。
『不如帰』天下統一への道-その三十八_c0093829_2239458.jpg
 と言う訳で、残り3回は有名所でのプレイをば。まずは、『甲斐の虎』こと「武田信玄」。「超」が付く程の有名人ですが、私にとっては「上杉謙信」の宿敵と言う存在ですね。



 武田信玄の能力値は(作6・戦5・政7)となっており、流石に戦国最強軍団総帥ですね。

 とは言え、自身のプレイ時はこの能力値は全く関係無いので、(作3・戦0・政7)と設定しました…うん、政治力だけは何とか体裁を保てましたね(笑)。

 家臣団も非常に充実(?)しており…

・武田勝頼(作3・戦5・政1)長篠の合戦で大敗。武田家滅亡の序章を開いた二代目。
・山県昌景(作3・戦6・政3)四隣座巻の赤備えは、天下人徳川の井伊家に継承される。
・馬場信春(作3・戦6・政3)武田四名臣の一。信房とも言う。川中島合戦などに功あり。
・山本勘助(作6・戦3・政3)謎の多い人物。戦国切っての名勝負は、この人の献策から。

 とまぁ、聞いた事のある人材揃いなのですが、正直少し中途半端な人選かと思います。個人的には、武田信繁・山県昌景・高坂昌信・山本勘助辺りが良かったかな。

 んで、在野武将として、武田勝頼、馬場信春、内藤昌豊なら、「武田四名臣」も揃える事が出来たと思うんですけどね。

 高坂昌信も内藤昌豊も居ないのは、ちょっと寂しいですね。あと、武田義信とかも。

 能力的に見ると、昌景と信春が全く同じ数値なのは味気ないですが、上杉家臣団より優秀ですね。勘助もかなり高い数値で、城の防衛には抜群の能力だと思います。

 勝頼は、(作2・戦4・政1)位が適正値な気がします。私は、基本的に上杉贔屓なんで。

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 んまぁ、色々とゴチャゴチャ書きましたが、プレイ開始です。

 まず狙うべきは、当然北信濃の村上家ですね。史実では苦労させられましたが、コレを開始年に攻略。しかも攻めてきた長野業正を撃退したら、討ち取る事に成功!

 開始年にも関わらず、「甲斐・北信濃・上野」の3ヶ国持ちになっちゃいました。

 大名の能力の高い美濃や三河の攻略は時間が掛かりますし、今川家と北条家とは三国同盟を組んでいるので、甲斐&北信濃の防衛ラインに勘助を置きます。

 で、北条家の猛攻に晒されていた上総の里見家を見ると、城塞値が11に。コレを攻めて、1556年に上総88万石を攻略する事が出来ました。

 しかも、その年には真田昌幸(作6・戦6・政5)を加え、武田家臣団を盤石に。

 兵質が戦国最強の15と言う事もあり、その後も快進撃は続き、1558年に常陸の佐竹家を、1559年には下野の宇都宮家を攻略致しました。

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 その間には、経略を掛けて石高を低くしておいた宿敵上杉家で一揆が起こり兵力が0になっていたので、コレをじっくりと兵糧攻めを仕掛け、春日山城を1561年に攻略。

 翌年に南陸奥を抑え、ここからは北陸から信玄の念願であった京を目指していきます。

 布陣としては、東北の抑えとして越後&南陸奥に昌景を、上野&上総には信春を、甲斐&北信濃の防衛ラインには変わらず勘助を置きました。

 もちろんこの間に、城塞値60の北条家に経略を掛ける事を忘れてはいけません。

 で、信玄を総大将に、先陣を昌幸・後詰めを愚息勝頼として北陸に西上していきます。

 能登を1563年、加賀は1564年に攻略。1565年には、越前と丹波を抑えていた朝倉家を一気に滅ぼします。んで、そのまま近江浅井家を攻めると…。

 当主長政を討ち取る事に成功し、一緒に山城と伊勢を抑える事も出来ました!

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 翌1566年には和泉を、1567年にも順調に大和を攻略していると、何と大内家を継いで中国5ヶ国を治めていた陶晴賢が丹波に攻めてきました。

 流石に大国だけあり力攻めで丹波を奪われると…勝頼逃亡!いや、嬉しいんですけど。しかしその陶晴賢も、翌1568年、佐々成政に哀れ下克上を起こされてしまいました…。

 その後は東北を一気に力攻めし、1568年に出羽を、1569年に陸前、1570年に陸奥を攻略しました。東北の冬は兵を動かせないので、これは最初の戦のみでの力攻めです。

 なので、近畿地方でも攻略はしており、1569年には紀伊を兵糧攻めで攻略。後は、三国同盟を破棄して駿河などに攻め入り、勧告を交えながら着実に領地を広げていきます。

 最後は、3ヶ国を治めていた島津家と決戦し、1574年に天下を統一出来ました。結局家臣団は一人少ないままでしたが、なかなかのペースで進める事が出来ましたね。

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○まとめ
・1574年統一→2年後幕府開く→378年幕府続く(西暦1954年まで)
・最終的な家臣団
 山県昌景(作3・戦6・政3)、馬場信春(作3・戦6・政3)、山本勘助(作6・戦3・政3)
 真田昌幸(作6・戦6・政5)

○蛇足
・逸話とかあり過ぎる人なので、個人的に気になる部分だけ抜粋します。
・躑躅ヶ崎館に専用の広い厠があり、そこで作戦などを考えていた。
・情報収集を特に重要視し、「三ツ者(素破)」と呼ばれる隠密組織を用いていた。全国に広域な情報網を張り巡らせた信玄は、「足長坊主」とも呼ばれた。
→ちなみに「素破」は、「スッパ抜く」の語源と言われています。
・「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」など、名言多数です。
by nekonekokoara | 2011-11-18 23:00 | 歴史小説 | Comments(2)
Commented by 不如帰2 at 2011-11-19 09:22 x
やまかん(山勘)の語源も山本勘助の名前を略したとか、金鉱山を捜す山師のカンが秀でていたからとか諸説ありますが山梨県発祥が有力?らしいです…。甲府に行った際に武田神社に寄り、信玄が産湯を浸かった井戸跡などを見学しましたが小田原城などと比べると戦国大名の本拠地としては簡素なしつらえ?でした。戦国武将でも色んなタイプがありますが、織田信長が重商主義で徳川家康が農本主義の中、毛利の石見銀山や伊達政宗・上杉景勝は豊臣政権下での新領地平泉・佐渡での豊富な金産出をテコに存在感を増していった背景には、そのお手本が武田甲州金にあるかも知れません。400年後の今でも金が唯一無二の安全資産な位なので…。
Commented by nekonekokoara at 2011-11-21 19:02
●不如帰2さん
山勘→山本勘助ですか、なるほど~。
表記すると「ヤマ勘」だと思っていたら、一発変換で「山勘」って出るんですね。

>甲府に行った際に武田神社に寄り、
不如帰2さんは、色々な史跡に行かれているんですね。
私は一時期「洋夷かぶれ」だったせいか、日本国内をほとんど旅した事が無いんです(悲)。
嫁さんはあまり歴史に興味が無いので、今から歴史探訪はあまり出来ないので羨ましいです~。

>そのお手本が武田甲州金にあるかも知れません
戦国期の兵制は石高によるモノが主でしたが、早期に「金」に目を付けた信玄は流石ですね。
黒田如水も関ヶ原時に商売で稼いだ資金を元に挙兵したのも、先見の明の為せる業でしょうか。
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